浅草の雷門前の交差点には、多くの人力車の客引きがいるよね!人力車に乗って浅草をぐるりと回って…というのもなかなか素敵だと思うよ。特に、浅草に関する歴史やうんちくを色々教えてくれるから、思い出に残るはず。そんな人力車だけど、そもそもどんな歴史を持っているのか見てみよう。
目次
人力車の歴史
「人力車が最初に生まれたのは、どこ?」
「人力車は、日本橋で誕生したんだよ。人力車が登場するまで、人々の交通手段と言えば、平安時代から続く牛車や籠だったんだよ。でも昔は、牛車や籠などは、自家用を目的としたものではなかったんだ。だから、所有している人も少なかったし、自家用としては、広く普及されなかったんだ。」
「人力車はどうやってはじまったの?」
「営業人力車の始めは、複数人で座る形で始まったんだ。これは乗合人力車というんだ。最初はシンプルな造りをしていたんだけど、屋根をつけたり日除けがついたりして、やがては六人乗りも生まれたんだ。」
「人力車は多くの人々に親しまれて、利用されたのね。」
「しかし、乗り心地がよくなかったんだ。複数人で乗るからね。しかも俥夫もたくさん必要となるから、政府に重税を課せられてしまって、明治20年には人力車は無くなっているしまったんだ。」
「では、どうやって現代の腰かけスタイルの人力車が誕生したの?」
「諸説あるんだけど、定説としては 和泉要助・鈴木徳次郎・高山幸助の3人が発明者したとされているよ。3人は連名で 明治3年3月22日に 雛型寸法書を添え、 人力車の製造と営業の許可を政府に出願したんだ。明治3年3月22日、に雛型寸法書を添えて提出したんだよ。」
「そして許可がおりたのね。」
「3月24日に政府から許可がおりたよ。だから、3月24日は人力車発祥の日となっているんだ。…ただし、条件があったんだ。」
「どんな条件?」
「それは、人力車の車体は、素朴に作り、華やかにならないようにしてほしいということと事故を起したときは厳しく処罰するなどの四か条の規則だよ。」
「そして3人は人力車の始めたのね!」
「そうだよ!発明者の一人である和泉要助が開いたのが出島屋要助商店の人力車なんだ。 和泉要助は、日本橋高札場付近で営業を始めたものの利用客は少なかったようだよ。」
「へー。便利なのにどうして?」
「初めは皆が恥ずかしがってしまったためだよ。そこで 和泉要助は、 家族や親戚に人力車に乗ってもらって近所を引いて回ったんだ。すると段々利用客も増え、わずか3、4年の間に人力車は普及したんだ。新しく人力車を引こく者は発明者の3人のうち1名から印を押してもらえなければ人力車を購入できなかったし、営業もできなかったんだ。」
「3人の事業は成功したのね。」
「しかし、人力車が普及にともない、専売出願のが立ち消えになるなど、全ての権限が剥奪されてしまったんだ。」
「人力車は、その後どうなってしまったの?」
「明治3年12月、人力車は大阪の移入に伴い全国への普及したんだ。大阪は、東京に次ぐほどだったんだ。」
「人力車は、どのくらいのスピードがでるの?」
「人力車は時速8~10kmだよ。これは、通常 大人が歩く時速4kmの倍も速く走るんだ。」
「人力車が普及すると、それまでの交通手段であった籠はどうなってしまったの?」
「人力車は、速さに加え、運賃が安かったため1万ほどあった駕籠は、3分の1程度に減少してしまったんだ。駕籠屋は、人力車の俥夫へと転向していったそうだよ。」
「人々は、どういう時に人力車を使ったの?」
「長距離を移動するのに使ったんだ。自分で人力車を雇いって旅をしたり、旅先で人力車を乗り換えて旅行したりというように利用したんだ。」
「人力車は、どこで作られていたの?」
「人力車は、東京銀座の『諸車製造所秋葉大助』で作られていたんだ。ここは、明治時代は最大の人力車製造工場だったんだよ。」和泉らが営業を開始した当初は、腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪、ちりとり型、だるま型など、いろんな種類の人力車があったんだ。秋葉大助は車体に漆を塗り、車軸にバネをつけるなどして、人力車を一新させたんだ。 そのおかげで乗り心地が快適になったんだ。 大助の作った人力車は、大阪では『大助車』と呼ばれ、好評だったんだ。 明治8年には現在の人力車に近い形になったよ。」
みんちゃんまん より:
女性 (30代)
2016/01/14 19:33
スカイツリーまで走ってくれます。浅草のことが何も分からなかったのですがガイドをしながらゆっくり丁寧に走ってくれるので好感が持てました。また、東京スカイツリーが全部見れる一望スポットの説明もしてくれるし、浅草の町中も走ってくれて思い出になりました。恋人でも親子でも楽しいと思いますよ。夜だとライトがすごく綺麗で恋人同士で行くと楽しいですよ。