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    忠臣蔵好きにお勧めの観光名所はここ!両国の吉良邸から泉岳寺まで。

    「忠臣蔵」という作品の名前を聞いたことのある人は少なくないはずです。これは人形浄瑠璃や歌舞伎の演目の一つで、1748年に大阪で初演された作品です。ちなみに「忠臣蔵」は通称であり、本来の名前は「仮名手本忠臣蔵」といいます。多くの人たちから愛されたこの作品は、後に演劇や映画の世界にも進出するようになります。また最近ではテレビドラマなどでも放映されることが多く、若者の間でも人気の作品となっています。恐らく「忠臣蔵」を知っている、という人のほとんどは、映画やドラマでこの作品を目にしたことでしょう。

    目次

    忠臣蔵好きにお勧めの観光名所はここ!両国の吉良邸から泉岳寺まで。

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    「忠臣蔵」の基となったのは赤穂事件という実話です。もちろん作品自体は見る人を楽しませるために脚色されており、史実とは異なる部分もあります。しかしこの作品を見たことで、赤穂事件に興味を持ったという人もいるはずです。この事件は江戸時代元禄期に起きたもので、発端は江戸城松之大廊下の高家旗本、吉良上野介と、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭によるいざこざでした。はっきりとした理由はわからないものの、何らかの原因で浅野内匠が吉良上野介に斬りかかります。後にその処罰として浅野内匠は切腹させられるわけですが、それにいきり立った浅野内匠の家臣である大石内蔵助が他の40数名を率い、吉良を討ったという事件です。

    現在、この事件の舞台となった吉良邸跡が、本所松坂町公園として残されています。そして「忠臣蔵」に興味を持つ多くの人が、この場所を訪れます。ではこの本所松坂町公園がどのようなところなのかを、見ていくことにしましょう。

    当時の様子が垣間見られる本所松坂町公園

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    吉良邸は元禄14年(1701年)の9月3日に建設された吉良家の上屋敷です。2,550坪(約8400平方メートル)もの広さがある立派な邸宅でした。この邸宅は元禄14年(1701年)9月3日に吉良邸となり、元禄16年(1703年)2月4日に没収されています。そのため吉良家の上屋敷となっていたのは、約1年半という短い期間でした。赤穂事件の後に江戸幕府に没収されて以来、そこには住宅などが立ち並ぶようになりました。そのため吉良邸の面影は徐々に消えかけていたのです。しかし昭和9年(1934年)、この名所を惜しんだ地元の両国3丁目町会有志会が先頭に立ち、復讐を果たした浅野内匠の家臣が吉良上野介の首を洗ったとされている「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入しました。その後この土地を東京市に寄贈し、翌昭和10年(1935年)に本所松坂町公園として開放されることになります。それから15年後の昭和25年(1950年)、この公園は墨田区へ移管されました。

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    本所松坂町公園は、当時の吉良邸の76分の1の大きさです。それでも当時の様子を知ることのできる観光名所であるのは確かです。ちなみに屋敷の表門は現在の両国小学校に面した東側にありました。また裏門は西側に位置し、東、西、そして南側には長屋がありました。建坪は母屋が381坪、そして長屋が426坪と、長屋の合計面積の方が広かったようです。こうしたことをあらかじめ知っておくと、本所松坂町公園を見たときに当時の吉良邸の様子を想像しやすくなります。ちなみに表向きには「公園」となっていますが遊具などはなく、各種説明板などが設置されていることから、記念広場のような印象を受ける場所となっています。この本所松坂町公園の所在地は東京都墨田区両国三丁目13番9号で、アクセスはJR総武線「両国駅」、東口から徒歩5分、都営大江戸線「両国駅」から徒歩10分となっています。また入園料は無料であるために、気軽に訪れることができます。

    ちなみに両国駅でお昼を食べたい!と言う方はこちらも参考にしてみてくださいね。
    https://asakusakanko.com/ryougoku-lunch/

    忠臣蔵ウォークで赤穂浪士の気分を味わう

    吉良邸に乗り込み、浅野内匠頭の復讐を果たした武士たちは赤穂浪士と呼ばれています。この赤穂浪士は12月4日に吉良邸に討ち入り、その後約13キロもの道のりを歩き、泉岳寺に赴きます。そしてそこにある旧主の墓前に吉良上野介の首を供えたのです。この道のりを歩くことは決して容易ではありませんでした。なぜなら道には雪が積もっていたからです。しかし13キロという長い道のりを赤穂浪士が悪条件の中歩き続けたことは、この戦いに対する勝利を大いに喜んでいたことがうかがい知れます。

    最近ではこの道のりを歩く「忠臣蔵ウォーク」というツアーが人気を得ています。「忠臣蔵」ファンが実際に赤穂浪士の気持ちを味わうにはもってこいのツアーとなっています。もちろんあえて雪が降るような悪条件の中で行われることはありませんし、当時と違って道路も整備されています。そのため辛いウォーキングになることはありません。また道中では赤穂浪士にゆかりのあるものを見学することができるために、想像以上に興味深いツアーとなるはずです。ではこの「忠臣蔵ウォーク」の見学ポイントのいくつかをご紹介したいと思います。

    忠臣蔵のスタート地点、本所松坂町公園

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    スタートはやはり明け方!暗いと雰囲気がありますね。

    当然のことながらスタート地点はここ、本所松坂町公園です。しかしツアーに参加する場合は、わかりやすい両国駅周辺が集まり場所として指定されることがあります。先にも述べたように、吉良邸は当時の76分の1の大きさしか残されていません。そのため当時の様子を知るためには、そこにある案内板の説明書きに目を通す必要があります。

    「吉良邸正門跡」の案内板

    現在、赤穂浪士が歩いた道のりには、たくさんのビルが建っています。しかしビルの前には赤穂浪士や吉良邸に関わる様々な案内版が設置されています。そこに示されている説明書きを見ることで、当時ここに何があったのかを知ることができるのです。恐らく本所松坂町公園を出て最初に目に入るのは「吉良邸正門跡」の案内板でしょう。

    これはビルの目の前に設置されているものですが、当時はこの辺りに吉良邸正門があったことを示すものとなっています。忠臣蔵のモデルとなった赤穂事件は、大石内蔵助以下23名がこの正門から吉良邸に押し入り、内側から門を開けて戦いを開始しました。つまりこの「吉良邸正門跡」は赤穂事件が開始された場所なのです。そのことを知ると、興奮を覚えます。

    赤穂浪士休息の場、回向院

    両国回向院

    しばらく歩くと、大きくて立派な鳥居が見えてきます。これは回向院という名前のお寺です。このお寺は明暦3年(1657年)に生じた江戸の大火の死者を弔うために建てられたものです。実は戦いを終えた赤穂浪士は、休息のために回向院を借りることを願い出ました。しかし住職は関りを持つことを恐れて、門番に開門させることを許しませんでした。ここは赤穂浪士にとっては苦い思い出のある場所なのです。ちなみに江戸時代、相撲は回向院で行われていました。そのため境内には「回向院相撲関係石碑群」が建てられています。

    泉岳寺へ行くまで、いくつかの橋を越えていくのも、忠臣蔵ウォークの楽しいところ。

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    赤穂浪士が最初に渡った一之橋

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    江東区小名木川にかかる萬年橋

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    今は道路となり痕跡だけが残る上之橋

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    永代橋の手前にある「赤穂浪士休息の地の石碑

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    勝どきの高層マンションを望む永代橋

    忠臣蔵全員のお墓がある泉岳寺

    ここはツアーのゴールとなる場所です。吉良上野介の首を赤穂浪士が運んできたのは、この泉岳寺でした。そしてここは慶長17年(1612年)に徳川家康が今川義元を弔うために建てたものです。赤穂浪士はここまでの13キロの道のりを、2時間で歩ききったといわれています。このツアーは1日かけて行われるもので、ゆっくりとではあるものの2時間という短い時間で歩ききることは容易ではありません。しかし当時は雪の積もる足場の悪い中での歩行でしたから、このツアーに参加することで赤穂浪士がいかに強健であったかを知ることができます。

    もちろんツアーに参加せず、赤穂浪士がどのような道のりをたどって泉岳寺に到着したのかを調べ、個人で歩くこともできます。ここでは全てを紹介できませんでしたが、他にもたくさんの見どころが道中に設けられています。それらを見ながら赤穂浪士や赤穂事件について思い巡らすなら、興味深い旅となるはずです。

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