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    ホッピー通りで飲むならホッピーの歴史を知ろう!

    浅草で飲むといったらやっぱりホッピー通りだよね!ずらりと並ぶ路面席に楽しそうに飲む酔っ払い!競馬新聞片手にテレビを見つめるおっちゃん!最高の場所だね。そんなホッピー通りを楽しむために歴史やうんちくを紹介するよ!

    目次

    浅草ホッピー通りの歴史

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    「ホッピー通りはどこにあるの?」
    「浅草の浅草寺境内西側、つまり場外馬券場近くにある全長70〜80メートルの通りにあるよ。ホッピー通りは別名、煮込み通りとも言われているよ。」
    「どうしてホッピー通りって言うの?」
    「ホッピー通りの店の前は、屋外のテーブル席があってリーズナブルにお酒を飲める店が軒を連ねているよ。この店が近年、浅草観光の若い世代の人々や外国人観光客らの目を引き、いつしかホッピー通りの名前で親しまれるようになったんだよ。」
    「ホッピー通りのホッピーとはなに?」
    「ビールの代用品としてのノンアルコールビールのことだよ。」
    「ホッピーはどのようにして誕生したの?」
    「 大正時代末期ビールは高級品だったんだ。そのビールの代用品としてのノンアルコールビールが誕生するとたちまち大人気になったんだ。」
    「ノンアルコールビールは美味しかったの?」
    「ノンアルコールはビールの代用品といっても当時は技術や材料が伴わず質が良くなかったんだ。そこで人々は、清涼飲料水製造販売『秀水舎』の創業者の石渡秀氏に、おいしい ノンアルコールビールをつくってほしいと要望を出したんだ。」
    「それで石渡氏は、どうしたの?」
    「1926年(大正15年)石渡氏が長野県野沢に清涼飲料会社の別工場を構えたとき、ホップの畑があるのを見つけたんだ。ここから、石渡氏は、ノンアルコールビールの研究に着手したんだ。」
    「戦争が始まるとノンアルコールビールの開発はどうなったの?」
    「昭和に入り、戦争が起こると拠点を赤坂から野沢に移して開発を続けたんだ。終戦後は、製造設備を野沢から赤坂に戻り、1948年7月15日にホッピーを販売したんだ。」

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    「ホッピーの売れ行きはどうだったの?」
    「新橋で販売したら、焼酎をホッピーで割る飲み方生まれ、焼酎割飲料がたちまち大ヒットしたんだよ。生ビールよりも美味しいホッピービアと言われることもあったんだよ。石渡氏は、1956年(昭和31年)ホッピーの製造特許を、1960年(昭和35年)麦酒様清涼飲料水のもろみ製造免許を取得したんだ。」
    「ホッピーは急成長をとげたのね!」
    「1977年ドイツ産直輸入ホップの使用し、1981年(昭和56年)には1日に20万本売れたよ。しかし、1980年(昭和55年)に柑橘系炭酸飲料ハイサワーが 博水社から発売されると人々は、ホッピーではなく柑橘系等の炭酸飲料で焼酎を割るようになったんだ。」
    「ホッピーは人の前から姿を消していったの?」
    「うん。1999年に新商ホッピーの焼酎割り「ホッピーハイ」が発売したんだけど 低価格缶チューハイや発泡酒の人気が盛り上がってきた時期だったため、失敗に終わっちゃったんだ。」
    「ホッピーは、その後どうなっちゃったの?」
    「同社はインターネットに目をつけたんだ。1990年代後半ホッピーのファンサイトが設立され、ホッピーファンの熱い要望により、1999年にホッピービバレッジ公式ウェブサイトを開設したんだ。これがテレビで取り上げられ宣伝されると話題を呼んだんだ。」

    ホッピー通りのお店まとめ下記記事へ!
    https://asakusakanko.com/hoppy-street/

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