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    浅草は港町だった!?浅草の起源を知ろう!

    浅草は歴史が古そうな町だけど、いったいどれほど昔からある場所なのか、実は知らない人も多いよね。ということで、今回は浅草の始まりについて紹介するよ!

    目次

    浅草の起源を知ろう!

    浅草の歴史

    浅草は歴史が古そうな町だけど、いったいどれほど昔からある場所なのか、実は知らない人も多いよね。ということで、今回は浅草の始まりについて紹介するよ!

    「浅草って昔からある感じだけど、そもそも“浅草”と呼ばれるようになったのは何でなの?」
    「浅草の地名の由来は色々あるんだ。アイヌ語で“海を越す”という意味の『アツアクサ』という意味から来ているという説やチベット語で“聖なる者の住まい”の意味を持つ『アーシャー・クシャ』とかね。」
    「へー。アイヌ語やチベット語から来ているなんて説もあるんだ。その他の説はどういったものなの?」
    「よく言われている説では寛政12年(1800年)に大橋方長が著した『江戸往古図説』によると

    『往古下谷より此わたりへかけて平地にして武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべしといへりさもあらんか』

    という記述があるんだ。どんな意味かと言うと、草が少なくて浅草と言えるのも頷けるという意味で、砂地が多かった隅田川だからあまり大きな草もなく、草が浅い、草が少ないといったこの地域の特徴が浅草になったって言われているよ。」

    「1800年というと江戸時代よね。でももっと古くから浅草はあったんでしょ?」
    「その通り。どのエリアを浅草と呼ぶか?など地域がちゃんと整えられていたのは寛政12年(1800年)となっているけど、文献においては、治承5年(1181年)『吾妻鏡』にも浅草が登場しているんだよ。」
    「『吾妻鏡』って教科書で見たことあるような・・・なんだっけ?」
    「アサカちゃん歴史苦手だったでしょ?笑 吾妻橋は鎌倉幕府が編纂した日本の歴史書のことだよ。初代鎌倉将軍・源頼朝から6代将軍・宗尊親王まで、将軍に関することが書かれているんだ。」
    「へー。『吾妻鏡』には何で浅草が出てくるの??」
    「そこには『於鎌倉中、無可然之工匠。仍可召進武蔵国浅草大工字郷司之旨』という記述があるよ。要約すると『鎌倉にはいない、大規模な神社・仏閣の造営も任せることができる宮大工の棟梁が、浅草にはいた。』と記されているんだ。そのころから浅草って呼ばれていたことがわかるよね。」

    実は昔の浅草は港町!

    「今の浅草は、浅草寺があって、隅田川があって、スカイツリーがあって・・・という感じだけど、浅草は当時どんな町だったの?」
    「実は、昔は深く東京湾が内陸に入りこんでいて、東は海だったから古代から大きな湊(港)があったんだよ。当時は東京湾には、品川湊・江戸湊(新橋)・浅草湊という3つ港があったんだ。」
    「浅草に海や港があったの!?」
    「そうだよ。3つの港は物資を運ぶ集積地としても活用されたんだ。湊に物資などが集められて、それらを大型船に載せて鎌倉へ運ばれたんだ。中国や朝鮮から来る物資も博多や神戸などの大きな湊から大型船で浅草へ運ばれたんだよ。」
    「へー!港として賑わっていたのね。人も大勢住んでいたの?」
    「浅草は、港として利用されていたけど、利根川水系に囲まれた湿地帯で、洪水があれば町一面が水浸しになってしまう水に弱い地域だったんだ」
    「水害が多かったなら、人が住むのは難しいそうね。」
    「うん。浅草に住む人は僅かで、それも高台に住み着み始めるようになったんだよ。現在の待乳山、弁天山、蔵前、鳥越神社付近に。都の人たちから見れば浅草は未開の土地だったんだよ。でも、源頼朝が鎌倉幕府を開いた頃には、隅田川沿岸に人々が住み始めるようになって、だんだん集落ができてきて、浅草寺の周りには町屋ができ始めたんだ。」
    「今の浅草の原型ができ始めたのね。」
    「そうだよ。それに、1590年には徳川家康により江戸城の修復と周辺の土地不足を解決して、人々が住めるような土地をもっともっと増やすために、海面や沼沢地の埋立てが進められ、土地改良進められて、人々が居住するようになったんだよ。」

    浅草寺と発展した浅草

    「人が定住するきっかけは、浅草寺があったから?」
    「そうとも言えるね。浅草寺は、推古天皇36(628)年に隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成、竹成兄弟が一体の仏像を見つけ、豪族の土師真中知が観音像の礼拝供養をしたことが始まりなんだ。大化元(645)年には、勝海上人が 夢のお告げによってご本尊は秘仏と定められ、 観音堂を建立すされると、たちまち武蔵国の観音信仰の中心地となったんだ。」
    「へー。じゃあ観音信仰があったから栄えたのね。観音菩薩って実はよくわからないんだけど・・・・」
    「観音菩薩は、観自在菩薩って言うんだよ。 菩薩は、悟りを求めて修行する者を意味するんだ。 来世では如来となる最高位の菩薩なんだ。 大乗仏教では菩薩は、自らの悟りを求めつつ、衆生を教え導く修行者と解釈し、この精神を仏教徒のあるべき姿としているんだ。 観音菩薩は、慈悲の心にから、救いを求めている人がいたら、すぐにそこへ行き救済すると言われているんだ。」
    「じゃあ救いを求めて浅草の地に住んだ人も多かったのかなぁ」
    「どうだろうね。笑 でも、信仰をする人が増えて、その人たちを相手に商売が発展していったのは事実だろうね。もともと人の集まった土地だったんだけど、江戸時代になると隣に米を保存する貯蔵庫「米蔵」が出来てそれを守るために多くの武士が暮らし始めたんだ。人が集まれば商売も繁盛して、またどんどん人が増えてくよね。こうして浅草は江戸随一の繁華街に発展していったんだ。」
    「浅草の隣町って言うともしかして蔵前!?」
    「正解!お米の蔵があったから、米蔵の蔵前!このあたりの話も面白いから、今度ゆっくり説明するね。」
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