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    作家、高見順の小説にも登場する浅草のお好み焼き屋、染太郎。

    文化が生まれる町というのはどこをイメージするでしょうか?新しい文化を常に発信し続けている表参道や渋谷。古きよきと新しさが融合する銀座。はたまた、日本と海外が融合する六本木…。新しい文化を発信しているエリアはこのような場所がイメージされるのではないかと思います。

    その中で、浅草は「昔の文化を守る街」というイメージがあるでしょう。でも、それは現在だからのことであって、ほんの数十年前までは、浅草という地は東京の文化を作ってきた場所でもありました。人が集まり、芸が生まれ、文学が生まれ、商いが生まれた場所です。

    そんな浅草だからこそ、文学史に残る人とかかわりがあったりします。今回はそんな浅草のとあるお店と、作家、高見順について紹介したいと思います。

    takamijyun

    目次

    浅草のお好み焼き屋染太郎と高見順

    高見順と縁深いお店というのが、とある浅草のお好み焼き屋さん。

    お好み焼きというと大阪や広島が有名です。しかし現在は日本全国お好み焼き屋さんがありどのお店も個性豊かな味や雰囲気で競い合っています。庶民的な味のお好み焼きは気軽に食べれて、楽しめる場所だと思います。

    しかし東京でお好み焼きと言うと、やはり東京の名物はもんじゃだろう!と思いますよね。更に浅草というと特にそのイメージが強いですが、浅草にもおいしく歴史のあるお好み焼き屋があります。そのお店「染太郎」は有名な文豪高見順さんと関係があるそうなのです。高見順さんと言えば激動の時代に登場する硬派な文豪というイメージがあるので、あまりお好み焼きのイメージはありませんが、実は関係が深いのです。

    作家、高見順について

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    高見順さんは日本の詩人であり小説家です。1907年8月に福井県に生まれます。出生から波乱を含んでいます。彼は福井県知事坂本釣之助の息子であったのですが認知されていない子でした。そして彼の母親は彼の愛人でした。後に彼は母親と上京するのですのが、一度も父親との再会はなかったみたいです。小さい頃は身分が卑しい子としていじめを受けていた事もあり、暮らし自体は貧しく母共々苦労が絶えなかったそうです。

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    しかし学生時代は精力的に活動をしていました。高校時代には社会思想の研究に没頭し、「輪転時代」というサークル誌を創刊します。その後帝国大学に入学後左派芸術に目覚め左派の文芸誌を創刊しました。更に左派劇団員である石田愛子と知り合い後に結婚します。

    その後は左派文学に傾倒しながらもプレリタリア文学にも興味を示します。雑誌などを創刊していきますが、事件は突然訪れます。治安維持法の疑いで逮捕されると妻の愛子が別の男と失踪してしまいます。しかしその後精力的に作家活動をして芥川賞の候補にまで昇り詰めます。その後水谷秋子と結婚します。

    戦争と時代背景に左右された作家人生

    時代は戦争の争乱期にあり治安維持法と法律の元に多くの文化人も粛清の対象となっていました。左派運動など学生が中心の社会的な活動に従事している事も多いでした。プロレタリア文学はこの当時は大変流行していた文学で個人主義を否定し、社会・共産主義に傾倒するような文学でした。この流れは日本全国の学生にも広がり、浅草などはちょうど怪しげな雰囲気な街となっている頃でした。

    その後1936年頃にはプロレタリア文学誌「人民文庫」に参加後、戦後の動乱期の為か思想保護観察下に置かれます。この頃には浅草にアパートを借りて住み始めます。この浅草での生活中に名作「如何なる星の下に」を発表します。この作品は高い評価を受け後に彼の代表作となります。

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    この作品を発表した頃は太平洋戦争中でも合った為彼はビルマに派遣されるも全ての武装をなくしてしまいハチマキだけで戦場に立っていたと語っています。

    「鉢巻をしても鉄砲玉は防げないのに、何故か心強くなる」…という体験をしてから、この頃のことを海音寺五郎に「戦場での空気は異質である」とも語っています。

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    その後「胸より胸に」を発表。更に「わが胸の底のここには」「あるリベラリスト」と立て続けに作品を発表します。

    高見順と浅草との出会い

    高見順の生涯は波乱に満ちて特にこの頃は妻とのトラブルなどもあり、満ち足りない時代を過ごしています。精神的にも追い詰められて何かから逃げようとしているともいえる様でした。その時に出会ったのが混乱の中にある浅草でした。

    浅草に宿を借り仕事場とした事で作品を生み出しやすくなってきました。そしてその時に生まれたのが代表作「如何なる星の下に」を発表できました。それは混乱の世の中を象徴するような浅草という場所がその時の高見の心情に合ったのでしょう。

    作家(小説家)として精力的に活動する傍ら高見は詩人としての活動も精力的にこなして、戦後を中心に「樹木派」「死の淵より」などを発表、評価を得ます。更に歴史的な日記も高く評価を受けていて「高見順日記」は特に永井荷風と共に高評価を得ております。そして敗戦の事を綴った「敗戦日記」なども歴史的資料としても評価が高く特に「高見順日記」はアメリカの学者にも日本近代史の研究材料になるほど海外でも評価が高いでした。
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    小説家・詩人・日記作家として活躍した高見順は1965年8月に亡くなりました。日本の小説家だけでなく、日本近代史に貴重な文学的功績も高く特に日記作家としての評価は特に高いです。また文豪としてだけでなく社会活動家としても名を馳せました。左派運動家として活動する傍らプロレタリア文学に傾倒していきます。もちろん活動する中で政治的抑留もあったのですが、それを乗り越え貴重な文学書を発表します。

    前妻とのトラブルもあり、意気消沈した時期もあったようですが浅草という場所に出会った事により彼の人生と文豪としての活動も大きく変化しました。それが近年にも歴史的な評価を得る事となります。
    戦前・戦後の日本の混乱を当時の浅草は表現されていたようで、ある人は「犯罪を犯した人間がこの浅草に来る理由が分かる」とも語っているように混沌した浅草の雰囲気が合い、いろいろな人間が集まってきたのでしょう。当時の浅草にはそんな戦前戦後日本の動乱が縮図として表されていたのでしょう。しかし高見にとってはそれはかえって好都合であったようで、作家活動としてのポイントになっていました。

    高見順の小説にも登場する浅草のお好み焼き屋、染太郎について

    「染太郎」は浅草に残る老舗のお好み焼きやもんじゃ焼きを扱うお店です。現在ももちろん風情のある姿で営業をしており多くの文人や俳優さんなどが通った事でも有名です。開店は昭和12年ということなので半世紀以上も前から浅草の地にあります。

    @yanarchy072が投稿した写真

    お店の特徴としては目の前の鉄板で調理してもらえるという事で出来たてを、食べる事が出来る事は勿論、お好み焼きの作り方を目で楽しませてもらえ更にパフォーマンスも楽しむことが出来ます。自分で作るよりはここはプロの味を楽しむことがより一層おいしく食べる事が出来ます。独自のメニューを常々研究し来る人たちを楽しませてくれています。食パンと挽肉を使ったお好み焼きなどは特にその最たるもので人気のメニューとなっております。

    東京都浅草の田原町という所にあり、近くに小学校や浅草文芸ホールや公会堂が近くにある事でも分かるように、演芸などを楽しんだ後に寄るなど庶民のお店という感じがします。店内の雰囲気も昭和と江戸が混在したような何とも言えないレトロ感は大変貴重な歴史的建造物とも言えます。浅草駅からは10分程なので少し歩く感じですが、浅草の通りを散歩しながらと考えれば、時間的にもちょうどいいかもしれません。
     
    現在ではランチ営業などニーズに合った営業もしているので、お値段もそこまで高くないので老舗の味を堪能できるのではないでしょうか。東京の昔からのお店に「粋」という言葉が出て来るように、このお店には特にそんな言葉をかけてあげたくなります。

    「如何なる星の下で」に登場するお好み焼き屋

    高見順の小説「如何なる星の下で」にもこのお店は再三登場してきます。

    浅草に仕事場としてアパートを借り住むことにより、浅草の風景を眺めながらこの小説を執筆していました。この小説は倉橋という中年の作家が小説を書くために、浅草の古ぼけたアパートを借りた事からこの話は始まります。その登場人物は中年の作家と踊り子や売れない役者など当時の浅草を表していたようで、主人公の中年作家(倉橋)は自分に重ね合わせたようです。また二人の踊り子が出て来るのですが、この踊り子小柳雅子にもモデル(吉本ショウの立木雅子と言われています)がいて当時の浅草の日記のような形になっていたのではと思います。


    「如何なる星の下で」の中で、染太郎は惚太郎として登場して来ます。店内の様子から当時お店に来るお客さんの様子まで事細かく描写されています。お店にいるかのような描写はお店に来る上で大変参考になります。現在では改装されています(戦災にて焼けた為)が当時の様子を伺い知る事が出来ます。

    浅草の東本願寺周辺を当時は「お好み横町」と呼ばれていて賑やかであったそうです。昔と違い浅草二丁目当たりの細い路地は無くなっているのですが、小説の中にはその様子が見えます。

    高見順と川端康成

    高見順さんを調べていると川端康成さんの名前が出てきます。

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    康成は高見とは家族ぐるみの付き合いをしていたと文献にもあり写真も数点か残っており、見解では高見の境遇への同情とも言われていますが、自身も父母を亡くし祖父母に育てられた経験もあった事で感情が入りしやすい事もあったようです。そして高見が病に伏せた際も何度も見舞い励ましたそうです。また永井荷風とも親交がありお互い刺激を与えられる存在でもあったようです。

    激動の時代に作家として巨星と言われ高見順時代と呼ばれるものがあったほど近代文学史に大きな足跡を残した高見順も病には勝てず、夫人に看取られ亡くなりましたが彼の作品は後世に大きな影響を与え、現在でも高い評価を得ています。

    戦前戦後と激動の時代を駆け抜けた高見順の作風には同じく激動の浅草が大きく影響しています。人にはいろいろな出会いがありますが、高見にはこの時代の浅草に出会った事が後の彼の人生に大きな道しるべを作った事は間違いないでしょう。

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