「花魁」などの映画でも一躍光を浴びたのが、浅草の裏手にある「吉原遊郭」だよね。

名前は聞いたことあるけど、詳しくは知らない…という人も多いんじゃないかな?浅草の裏手は、この吉原があったからこそ面白いお店が数多く残っていたりもするんだ。歴史を知っておくと面白いと思うよ!

吉原の遊郭の歴史

浅草遊郭

明治時代の吉原遊郭

昔は人形町にあった吉原遊郭

「かつて江戸には吉原があったんだよね。どのあたりにあったの?」
「今の日本橋人形町( 旧・葺屋町) にあったんだよ。 かつては、遊女町、傾城町とも呼ばれていたんだ。」
「いつ頃からあるの?」
「江戸時代の元和3年つまり、 1617年だよ。 この年に幕府公認の吉原遊廓が誕生したんだ。」
「吉原の語源って何?」
「2説あるよ。1つは、吉原の創設者・庄司甚内が東海道の吉原宿出身であったためという説と、 葦(=悪し)の 生い茂る低湿地帯だったのを転じて吉という縁起が良いものとしたという説があるよ。」
「なぜ幕府公認の吉原が作られたの?」
「徳川家康の駿府城城下には、家康公認の七カ丁ほどの広い敷地面積を有する遊郭があったんだ。 そのうちの五か丁が、家康の死後に、駿府から吉原に移したのが始まりとされているよ。 また、 江戸に散在していた遊女屋を一ヶ所に集めたいと庄司甚右衛門ら遊女屋稼業の者たちからの願いがあったため幕府が許可し作られたんだ。」
「へー。どんな条件で作られたの??」
「それは、吉原遊郭設置場所以外では遊女屋は一切認めないこと。客は一昼夜以上、店にいてはならない。遊女は贅沢な着物を着てはいけない。遊郭は質素な佇まいとし、町役は他の江戸の町と同様にすること。身元不審の者は奉行所へ通報することの5点だよ。」

大火事による吉原の移転と火事の歴史

「この人形町の遊郭は1657年の明暦の大火で吉原は焼失してしまったの?」
「大火で吉原も焼失してしまったんだ。それから、幕府の命により、新吉原が浅草に出来たんだ。 以前の日本橋にあった吉原を元吉原というんだ。」
「その他にも、江戸では大火が何度かあったんだけど、どうなったの?」
「1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年にそれぞれ大きな火事が起こって、吉原も大きな被害にあったんだ。再建されるまでは、浅草近隣に仮設の住宅などが作られていたんだよ。この写真は1872年だから、火災後で少し新しくなっているね。」

江戸吉原

1872年の吉原
「吉原大門という交差点が残っているけど大門があったの?」
「吉原大門は吉原遊郭の入り口だったんだよ。 出入り口は、山谷堀沿い、日本堤側のみで外の世界から隔絶されていたんだ。 遊女たちの逃亡を未然に防ぐために、出入口はこの大門だけだったようだよ。 ちなみに吉原という地名は、今はもうないよ。大門は、吉原の外と内を隔てていたんだ。 江戸時代は黒塗りの木造のアーチ型楼門で、明治時代は鉄門が建てられたが、1911年の大火で焼失してしまったんだ。関東大震災を機に撤去されたんだよ。」
「逃げるのは難しそうね。」
「大門だけでなく、吉原の周りには、お歯黒溝と呼ばれる大溝があったんだよ。新吉原が誕生した初期には、幅5間(約9m)、江戸末期から明治初期には幅2間(約3.6m)、明治36年には3尺(約90cm)の堀が巡らされていたんだ。写真は江戸末期の吉原の地図なんだ。」

江戸の吉原

江戸末期の吉原の地図

吉原にいた女性たち

「吉原にはどんな女性たちがいたの?」
「ひとえに遊女といっても花魁・新造・禿など身分があったんだ。江戸前期のトップクラスの遊女は和歌や茶道など教養を身に付けていたよ。」

yoshiwara

「だから格式が高かったのね?」
「ドイツの考古学者は、“ヨーロッパのそれとは違う。他の仕事に見劣りしないまっとうな仕事だ”と思ったそうだよ。」

明治大正の吉原

明治大正の吉原

現在の地名にも残る吉原の跡

「吉原の近くにある衣紋坂の由来を教えて。」
「衣紋坂は遊客がここで衣紋を繕う、つまり身なりを整えたことに由来するんだ。」
「見返り柳ってどういう意味があるの?」
「見返り柳は、衣紋坂入口の左にあって 石碑が建っているよ。柳は、 当時からのものではなく、昭和時代に植えられたものだよ。帰る客が後ろ髪を引かれながら振り返ったとされるんだ。」

1930年代の吉原

1932年の吉原
「大門通りの由来を教えて。」
「洲崎(現・江東区東陽)にあった洲崎遊郭の洲崎大門と吉原大門をつなぐ大門通りだったため大通りとなったんだよ。別名は親不孝通りとも言うんだ。」
「吉原神社は、吉原と関係あるの?」
「関係あるよ。吉原神社は吉原にあった玄徳稲荷社と新吉原の四隅を守護していた榎本稲荷社などが合祀され、吉原遊郭の鎮守として創建されたんだ。」

吉原神社

現在の吉原神社
「多くの遊女の墓所がある投げ込み寺とは?」
「1922年(大正12年)関東大震災に逃げ遅れた遊女たちが、廓内にあった弁天池に飛び込み490名の犠牲者が出てしまったんだ。そして多くの遊女が 浄閑寺に放り込まれたことから投げ込み寺と呼ばれたんだ。」
「そうだったんだ、かわいそうね…」

現在も見える吉原遊郭

「今でも花街の名残は残していて、たまに浅草の観音裏なんかでは芸者さんを見かけることもあるんだよ。また、花魁は吉原もお祭りの1つとなっていて、春に行なわれる“浅草観音うら一葉桜まつり”で花魁の練り歩く姿が見えるんだ。」
「お祭りは、天候などでの変動がなければ4月の第2土曜日に開催しているから、是非浅草の観光ついでに見に行ってみてね!」
店名 吉原の歴史
住所 東京都台東区千束3丁目20−2

▲ このページのトップに戻る

by
カテゴリ:歴史 タグ:

お店・スポットへ応援コメントお願いします。

ニックネーム

年代

性別

アイコンを選択

メッセージ