アンヂェラス

川端康成、手塚治虫と喫茶店 アンヂェラス…文豪、文化人の通ったお店とは?


投稿日:2016/01/22

浅草という場所を考える際に思うのは、この街が愛されている街であるという事をまず初めに思い出します。一般の人にも地位のある人でもこの街に何らかの愛情を持ち住み、通うのではないでしょうか?

アンチェラスと浅草の文化人たち

浅草には風情があり失われない「粋」という物があります。その粋という事と伝統という面で特に感じるのが昔から受け継がれた名店の数々です。その種類は数々あります。和食のお店、洋食、天ぷら、蕎麦など挙げていくときりがないです。その中に「アンヂェラス」という歴史ある喫茶店があります。このお店にはたくさんの文化人が通ったそうです。
その中には川端康成・手塚治虫・池波正太郎・永井荷風・太宰治など名前を聞いただけで凄い文化人の方々も好み通っていたそうです。そんな浅草の名店「アンヂェラス」と文化人の関わりを見ていきたいと思います。

アンヂェラスを訪れたとされる文化人は数々います。その中でも前述した5人は特に名前が良く出てきます。特に川端康成と手塚治虫は好んで通ったと聞きます。この二人を中心にそんな文化人の横顔を見てきたいと思います。

浅草名喫茶店アンヂェラス

アンヂェラス

アンヂェラスは浅草の老舗の喫茶店です。創業が昭和21年と半世紀以上前から営業しています。外観も建て直しがあったのですがクラシックな雰囲気を持ち昭和な雰囲気を保っています。中の椅子なども開業当時の物を使っています。粋という言葉が似あいます。

このアンヂェラスは浅草のオレンジ通りにあります。オレンジ通りは浅草寺周辺の商店街を指しています。元々は道路がオレンジであった事からこの名称がつきました。浅草寺周辺という事で駅からのアクセスもしやすくなります。元の名前が浅草公会堂オレンジ通りと呼ばれていました。整備解体を繰り返して平成5年に現在の形になりゆっくりと歩ける憩いの商店街となりました。参加店舗は飲食店を中心に占いのお店や生活雑貨まで暮らしを中心とした商店街となっています。歴史ある店が並ぶ事で散歩するにもいいコースと思えます。

アンヂェラスのメニューで有名なのはサバリン、ダッチコーヒー、アンヂェラス(ケーキ)といった所になります。

@annekuroが投稿した写真

サバリンはラム酒を混ぜたシュークリームです。ラム酒がたっぷりとかかりボリューム感があります。アンヂェラスというロールケーキじゃ、パフェなどどのメニューも新しさと懐かしが混合しております。またダッチコーヒーとは水出しコーヒーの事でオランダでは水をろ過する事からこの名前が付きました。特徴としては後味の爽やかなコーヒーです。もう1つおいしい飲み方は梅酒を入れるそうです。

手塚治虫や川端康成はこのアンヂェラスを大変気に入っていて更に池波正太郎や永井荷風も足しげく通っていたそうです。ダッチコーヒーは大変気に入っていたらしくこの場所で数々の名作の構想を練っていたのでしょう。とにかく内装を含めた雰囲気が文豪たちを包んでくれるようで大変リラックスできる場所です。そしてよく噂で出ている太宰治がこの店を訪れたという話は全くの噂だそうです。

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川端康成について

さて、ここからは、アンヂェラスとかかわりの深かった、文豪や文化人について知ってみましょう。」

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まずは川端康成について。説明の必要が無い程の有名な小説家であり彼の書いた小説は特に多くの人に影響を与え、日本のみならず海外での評価が高いのが特徴です。彼の小説を表す時に出て来るのが新感覚派という言葉を使いその書法を表す象徴のような存在でありました。

辛い幼少期が作品に影響を…川端康成の生涯

康成は1899年大阪にて、開業医であった父と厳格な家庭で育った母との間に生まれました。決して裕福ではなく父も康成が1歳の時に亡くなっています。

母の実家で育った康成達は更に母も亡くなっています。その後は資産家である祖父母に育ててもらいます。しかしこの祖父母も事業に失敗するなど必ずしもこの頃も裕福であったとも言えません。今後この父母を亡くした事が彼の作品に大きく影響します。

小さいころから文才のあった川端康成

豊川尋常高校(現在での小学校)に入学するのですがあまり学校に行かなかったのですが成績は優秀で特に文章を書く能力は秀でていたそうです。その後も祖母・姉と亡くなり、とうとう祖父と二人だけになってしまいます。大阪茨木中学校に入る時には孤独な感情に悩まされながらも、作家になるという気持ちが強くなり始めます。勉強より本を読んで成績が落ちるという事もありますが、作家になるという気持ちの方が強かったそうです。中学3年で祖父を亡くしとうとう天涯孤独となってしまいますが、周りの哀れみを嫌っていたと後に著書でも語っています。

康成は幼少期に身内をいっぺんに亡くしてしまい、その事が後の作品などに大きな影響を与えたと彼は後に語っています。それが精神世界(魂)といった物から易学など後世の評価で神霊や神秘的であるといった言葉はやはりこのような体験が強く影響しています。

浅草で過ごすことが多くなった受験時代

肉親の死を受け叔父の所に世話になりながら学生生活を続ける中、同級生の作品が活字となる事が彼を大きく刺激します。その後、京阪新報に作品を持ち込み短歌が掲載されるようになります。その後成績が良くない事も顧みずに上京し浅草の叔母を頼り一高(現在の東大)への受験を目指します。この頃浅草公園などで過ごしていたようです。一高入学後多くの文人と交流をもちます。この時に突然伊豆へ旅に出かけますが、この時の経験が後の名作「伊豆の踊子」を執筆する事となります。

学校にも馴染んでいった康成は処女作「ちょ」を出します。一高卒業帝国大文科に入学新宿に住んでいたのですが、後に浅草に下宿するようになりこの頃にカフェの女給伊東初代と婚約するも生活は苦しく学友菊池寛が援助していたそうです。しかし初代から一方的に婚約破棄され結婚は出来ませんでした。

上京後の康成は浅草を拠点に新宿などへ引っ越しをしますが、結局は浅草に戻ってきます。更に初代はカフェの女給であり岐阜に康成は会いに行き婚約をしたのですが、初代は浅草のカフェアメリカの支配人と結婚してしまいます。この頃の浅草にはアンダーグランド的な雰囲気が合ったようで、同時代を過ごした他の文豪もそうなのですが「カフェ」という言葉が良く出てきます。そして更にそのような形態のお店が浅草を中心に合った為この当時のイメージが浅草の裏の顔として現在までイメージとして残っているとも思われます。

浅草へ越し、執筆活動を続けた川端康成

初代との婚約破棄後傷心のまま帝大英文科から国文学に移籍します。その後伊豆へ再度出かけ「湯ヶ島での思ひ出」という小説を書きます。その後大学卒業後恩人菊池寛が創刊した「文藝春秋」に編集文人として加わります。その後は戦乱の混乱の中に飲み込まれる康成ではありますが、体重が規定になかった事で兵隊となる事はなく文筆活動を続ける事が出来ました。そして大正・昭和をまたぎ「伊豆の踊子」を出版しました。この頃には松林秀子と結婚しています。伊豆の湯ヶ島での文筆活動が多かったのですが、仕事量が増えるにつれて再度浅草へと引っ越します。そして執筆活動を続けます。

初代との婚約破棄はある意味時代的な物もあったのでしょうが、初代には思いがあり伊豆へ活動の場を持っていたのはその何か名残があったのでしょう。しかし秀子と結婚して浅草にもう一度戻ります。それも学生時代に慣れ親しんだ浅草公園界隈を散策しながら執筆活動を続けていました。プロレタリア文学の隆盛などもあり不振の時期もありましたが学生時代慣れ親しんだ浅草は康成にとって息抜きできる場所であったのでしょう。この昭和初期の浅草はレビュー劇場カジノフォーリーが出来るなど商業ビジネスが盛んでありました。このカジノフォーリーは前身の浅草オペラ座から島村龍三が中心に立ち上げた劇団でここにはエノケンこと榎本健一も属していました。その後文芸部も立ち上げられましたが1930年に解散しています。このカジノフォーリーを康成は小説としても取り上げています。自身も第二期の文芸部に所属していました。この時期の浅草は現在の礎となるような興業の形態を作りつつあったようです。

伊豆の踊り子の成功から、自ら選んだ死まで

終戦後康成は文芸評論の方面でもその才能を発揮します。純文学の衰退を特に気にしていたようです。伊豆の踊子も映画化されるなどその活動は円熟を迎えていきます。「雪国」代表作を発表する傍ら新人の発掘にも積極的でハンセン病の作家北条民雄を紹介するなど後進の指導にも余念がなかった。直木賞芥川賞が設立される中で太宰治との確執もありました。

戦乱のさなか執筆活動を続け更に多方面に活動していきますが、当時は文芸の規制が多く数々の小説が規制されました。しかしそれよりも康成を傷つけたのは度重なる戦争による友の死でした。後年やりきれない気持ちを著書に書いていました。それとは別に新人を数々送り出すなどして、前述の北条だけでなく三島由紀夫も含まれていました。数々の親友の死去に心を痛めていた時期でした。

戦後鎌倉に移った康成は「千羽鶴」「山の音」を発表後「舞姫」の連載を始めます。この頃には芸術院賞を受賞し、更に永井荷風と共に芸術院会員にも選出されます。その後は日本での活動だけでなく英訳による雪国のアメリカでの出版や伊豆の踊子の英訳での新橋での上演と、グローバルな活動が目立ち国際ペンクラブ執行委員・副会長と国際的な貢献が目立ちます。その後伊豆の踊子の再映画化やNHK小説の脚本作りなど多岐に渡り更に中国への文芸への圧迫などを批判するなど政治的にも発言力を強めます。ついに1968年には日本人初のノーベル賞を受賞するなどキャリアの充実を深めます。

晩年、活動を続けるも精神的に追い詰められた事もあったのか、1972年に自殺をしました。突然の死に世界的な衝撃を受けました。72歳でした。

川端康成と浅草について

川端康成は世界的にも影響のある数少ない作家でした。更に浅草との関わりは強く彼の代表作の一つ「浅草紅団」は川端康成が浅草で過ごした30歳前後での執筆作で不良少年グループ「浅草紅団」を中心に当時(昭和初期)の浅草の様子を描いた小説です。今でいう池袋ウエストゲートパークでしょうか。

当時の浅草のアンダーグラウンド的な様子が余すことなく描かれていて、歴史的にみても貴重な小説です。関東大震災以降の昭和恐慌の中での様子を浅草を中心として描かれる様は不安定な日本の様子とも相成って不良グループの荒廃感が際立ちます。一人称での展開で浅草への愛情が溢れています。この小説を書くに当たり康成は浅草の雰囲気を伝えたいという思いがあったそうです。

康成は大阪出身でありながら伊豆や鎌倉との関わりは有名ですが、浅草は学生時代からの馴染みのある場所で浅草公園にはよく通ったとも言っています。上野駅近くにある浅草萬世庵で除夜の鐘を聞きながら蕎麦を食べるのが恒例となっていたようです。他にも浅草を舞台とした「浅草日記」などがあります。そこまで浅草への愛着は強かったようです。婚約者初代も浅草のカフェに在籍していたなど浅草にはいい思い出辛い思い出の両方がそんざいしたのでしょう。

アンヂェラスを愛した手塚治虫

日本を代表する漫画家で漫画の神様とまで言われています。その代表作は日本のみならず世界に影響を与えています。彼の代表作「鉄腕アトム」「ブラックジャック」などは漫画としてだけでなく科学的にも高い評価を受けています。日本の漫画の流れを作った手塚治虫とはどのような人物だったのでしょうか?

手塚治虫の生涯

手塚治虫は1928年大阪に生まれました。親族は医者や司法官更に、更に父は一流商社に勤めかなりハイカラな人だったそうです。家にはカメラがあり外国のアニメなどを見て過ごす事も日常でした。当時としては珍しく父も母も漫画への理解は高かったそうで、自宅にもたくさんの本がありました。そのような背景があった事が後の手塚の作品への影響も大きかったと思います。一時期大阪から兵庫県の宝塚市に引っ越し宝塚のショーを感激した事を伝えています。現代の池田大付属小に入学後は中々学校に馴染めず浮いた存在であったそうです。その事がかえって好都合となりこの時期に初めて「ピンピン生ちゃん」を書きます。また旧友の影響で科学・天文学・昆虫学に興味を持ったのもこの時期でした。そしてこの時期にペンネームである治虫を使い始めます。

努力の末の名作


戦争時には中学生となった治虫は漫画を描くことが困難となるのですが、イラストを描き続ける事と軍事施設を作っていました。中学卒業後浪速高等学校を受験するのですが、失敗して大阪帝国大学医学部に入学します。軍医の成長が急務であった為時代の流れに乗ったような形となりました。その後も漫画を描き続け投稿を繰り返しました。その努力もあり学生向けの新聞に四コマでの連載が始まります。1947年「新宝島」を発表後ベストセラーとなります。しかしその一方で大学との掛け持ちが難しくなり医者の道は断念しました。手塚は大阪での活動から東京への活動を目指し始め、1950年以降ジャングル大帝、鉄腕アトムと雑誌連載が始まります。その後もリボンの騎士、火の鳥と立て続けに連載を始めます。実際上京したのは1952年で有名な豊島区のトキワ荘に居を構えます。

トキワ荘は豊島区にあり手塚を初めたくさんの漫画家を送り出しました。赤塚富士夫や藤子不二雄や石ノ森章太郎など現在でも影響力の強い漫画家が多いのが特徴です。明確な規律を持つ事で数々の著名な漫画家を生み出しました。
この後結婚もしますが当時流行であった劇画への対応が彼の悩みとなっていました。その事でケガをしたりしてもいました。

努力の末の名作

手塚は劇画への対応としてというより子供の頃からの夢としてアニメーションを手掛けます。1961年に手塚プロダクションに動画部を設立、「ある街角の物語」を制作します。

その後虫プロダクションに改名後鉄腕アトムを放映します。その後もジャングル大帝やマグマ大使などを世に送り出しますが、たくさんの漫画家台頭により不振と低迷、更に経営も思わしくなくこのまま手塚が終わるかと思われた矢先にブラックジャックで復活します。

晩年にはアドルフに告ぐなど少年漫画から青年漫画へのシフトが始まります。精力的に活動を続けるのですが1988年頃より体調を壊し1989年に死亡しました。日本の漫画・アニメーションの多くの功績を残した手塚治虫の意志は現在のクールジャパンの礎となっております。

日本の代表とも言われる文化人、手塚治虫も、そのアンヂェラスを愛した1人でした。アンヂェラスの店内には、手塚治虫のサインも飾られており、ファンでなくても1度は見に行きたい場所です。

アンヂェラスのある浅草という場所の魅力

浅草は昭和初期の雰囲気と現在の雰囲気は区画整理などもあり異なったものとなっています。混沌とした浅草と開かれ明るい浅草、どちらも浅草の姿です。関東大震災と昭和恐慌・戦前戦後と激動の時代を流れていく中でカフェというような当時流行ったお店が大きな流れとなっている事が分かります。

浅草は常に変化してその姿を変えているのですが、伝統という事は失わない事で浅くの代名詞「粋」という言葉を作っています。それが未だにみんなを引き付ける事になっています。特に川端康成や池波正太郎は浅草を題材とした日常的な事を描いた小説を数多く描いてきました。浅草には日常的な事からそのような魅力を持ち続けているのでしょう。

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店名 アンヂェラス
住所 東京都台東区浅草1-17-6

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カテゴリ:喫茶店・カフェ, 歴史 タグ:

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