二天門

浅草の重要文化財、二天門の歴史


更新日:2015/06/09

浅草寺の向かって右手にある門は二天門という門なんだ。これは浅草の重要文化財なんだよ!歴史あるこの二天門を知っておこう!

二天門の歴史

二天門

浅草寺の馬道通り側にある二天門の紹介だよ。二天門は浅草寺に来たら見たい14の諸堂の1つなんだ。

「二天門は、本堂の東側、浅草神社の鳥居に向って右手に建つ二天門はいつ建てられたの?」
「初め、二天門は元和4年(1618年)浅草寺境内に東照宮の随身門として建てられたんだ。」
「東照宮って日光にあるよね?浅草にもあったんだ。」
「本宮は日光の東照宮なんだけど、浅草から日光まで136Kmもの距離があるよね。電車や自動車が無かった時代は気軽にお詣りできるは場所ではなかったんだ。特に将軍や上級武士以外はね。だから、誰もが手近にお詣りが出来るようにと建てられたのが浅草の東照宮なんだ。」
「随身門には誰が祀られていたの?」
「豊岩間戸命と櫛岩間戸命の二神が祀られていたんだ。矢大神門も言われて、人々に親しまれていたんだよ。しかし 寛永19年(1642年)東照宮は焼失してしまって、その後の再建はされずに影向堂前の石橋と随神門だけが残ったんだ。東照宮は江戸城内紅葉山に遷座されたんだよ。」
「今でも紅葉山の東照宮は江戸城内にあるの?」
「残念ながら、今はもうないんだ。 紅葉山は、なんだ。『鷲の森』とも呼ばれていたようだよ。現在は皇居の一部となっているよ。元和4年(1618年)、 江戸城西丸の東北にあった紅葉山に東照宮、つまり徳川家康の廟所が置かれて、家康の命日での4月17日には、当時の将軍が紅葉山の東照宮を参拝しました。これは、「紅葉山御社参」といって幕府の公式行事の1つだったんだ。秀忠以降もの歴代将軍の廟所も紅葉山に置かれたたんだよ。明治に入ると政府によって東照宮の廟所は廃止されてしまったんだ。」
「二天門は、いつ再建されたの?」
「1649年(慶安2)に 境内のその他の諸堂と共に再建されたよ。」
「明治時代に入ると神仏分離がなされたけど、そのときどうなったの?」
「神仏分離のため、二神が廃され、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天が置かれて、三条実美が書いた「二天門」の額が掲げられ、門も名前も「二天門」と改名されたんだよ。」
「それから二点像はどうなってしまったの?」
「二天像は戦争中に、修理先で焼失してしまったんだ。」
「では、現在のものはいつ置かれたの?」
「現在の二天像は、上野の寛永寺の第4代将軍徳川家綱(巌有院)の霊廟にある勅額門から賜ったんだよ。 現在の門は、慶安2年(1649年)頃に建立されたと言われるんだ。平成22年(2010年)の修理では創建当初 (1618年) の姿に戻されたよ。ちなみにスロープをつけたため、現在の門は閉まらないんだよ。」
「二天像について詳しく教えてくれる?」
「向かって左が増長天 、 右が持国天だよ。二天像の目には水晶やガラスの玉が入っているんだ。増長天は、右手に法具を挙げ、左手は腰に、 持国天は左手に独鈷杵という 密教法具を持ち、腰に右手をあてているわね。持国天と増長天は、四天王に数えられる仏様だよ。」
「四天王ってなに?」
「 仏教の四人の守護神。 帝釈天に仕え、 八部衆を支配する。 須弥山の中腹にある四王天の主で東を持国天・南を増長天・西を広目天、北方を多聞天をいうんだよ。像は甲冑をつけ武器を持って、邪鬼を踏む姿をしているんだ。仏塔やお釈迦様の周りに安置される場合が多いよ。」
「二天は、対照的な姿をしているね。」
「 平安時代中期頃から始って鎌倉時代以降に流行した寄木造っていう 技術が用いられているんだよ。 複数の木材を組み合わせて造る寄木造りは1体の像を同時に複数の仏師で制作できるから短期間で造れるんだよ。もともと二天は全身、華やかな色だったんだ。現在でも顔や鎧の部分に赤色や青色など鮮やかさが残されているのが分かるね。」
「二天門ぜひ、行ってみたい!ちなみに二天門がある浅草の東側ってあまり知らないんだけど、何があるの?」
「浅草寺から二天門をくぐり、まっすぐ歩ていくと、五分くらいで隅田公園につくよ。春には春には桜が満開になり、 4月には流鏑馬 、夏は隅田川花火大会が行われるんだ。水上バスのりばもあるよ。浅草観光を楽しんでね!」

二天門や、二天門のある浅草寺の情報はこちらもチェックしてみよう!→浅草寺観光が楽しくなる!プチ情報

歴史あるものが多い浅草、色々回ってみると面白いですよ!→浅草の神社や寺、歴史的な建造物

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店名 浅草寺の二天門
住所 東京都台東区浅草2−3−1

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カテゴリ:お寺・神社, 歴史 タグ:

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